りんくすのこそこそ話

りんくすが特撮とか、遊戯王やらポケモン、そのほか色々趣味について書くブログ

プレイヤー=主人公をアニメにするのは難しい

と、思う訳ですよ。

前にFGO7章クリアした時感激でブログ書いた事もあり、当然ながらアニメバビロニアも観ております。

という事でね。今回はFGOアニメ観て思ったことの話。

正直に言うとね、あれこんなもんだったっけ。みたいな気持ちです。

 

あ、先に言っておくと批判の意図は一切ないです。

 

実際ね、7章プレイ当時に比べればFGOというコンテンツそのものに対する熱も冷めているのはありますし、アニメはまあまあ端折っている部分もあり、そのままをお出しされている訳でもないので、結局の所別コンテンツなんだなあと思う所。

表現方法がまるっと違うので当然なんだけどね。まあまあ楽しんで観ているけど。

 

アニメ観てて思うのは主人公の扱い困ってそうって事。

 

FGOの主人公って「=プレイヤー」系ですから、それなりのキャラ付けはあるにせよ軽く塩味付けましたって感じにほんとにあっさりなもの。役割は狂言回しに近いので、主人公自身が「動く」ゲームではないですよね。

ゲームではそれで問題ないんですよね。テキストを読み進め、戦闘はスキルやカードを選ぶ。ガチャも引く。戦力増強をするのも主人公であるプレイヤーだから。

 

とは言えアニメではそうはいかない。

彼個人の気持ちがあり、言葉があり、動きがある。

が、

とは言え戦闘のメインはサーヴァント。アニメのメインは戦闘シーン。となると、そもそもその場に入らない主人公は置物になってしまうのです。

 

士郎は=プレイヤーではないし、ラスアンではデッドフェイスという自身も戦闘に混じれる設定を付けられていたのでアニメでも動けていたものの、FGOはそうはいかない。

 

だって主人公は特別であってはいけないので。

 

「マスター適正があった普通の人間」である主人公はそういう何か特別な要素を付け加える訳にもいかないし、原作を尊重すればそもそも主人公が何か言葉を発するシーンも一部の選択肢のみ。と、あまり個性を付け加えても原作好きからは顰蹙を買うのは目に見えている。

 

アニメ化に際して「当たり障りのない」主人公にするしかないのでゲームをプレイしていない人にはどうにもイマイチな印象にしかならないのだろうなと。

現地サーヴァントとの交流を考えると、数多のサーヴァントと契約し、戦いに呼び出すというFGO主人公の最大の特徴はオミットせざるを得ない。

そうしないと戦いの中で生まれる信頼関係が構築しにくくなってしまうから。

 

FGOファンから求められる主人公の像は、自由そうで意外と結構がんじがらめ。

 

ゲームシステムが褒められたものではないとは思うけど、それでも「プレイする」事によって自分も困難をサーヴァントと共に乗り越えたからこそ、得られた感動があった。と、今7章を振り返ると思う。

だからただ「観る」だけで、自分が主人公ではなく、ただの傍観者になってしまうと「こんなもんだったっけ」となってしまう。

多分、ネットでスクショを見て部分部分の切り取りしか見ていない人が、上げ足取って笑うだけになるのも、そういう事なんじゃないか。

 

作り手の腕の見せ所かもしれないが、難しいものは難しいだろう。

 

信者と言われるかもしれないが、ゲームは「プレイした者にしか得られないモノ」は絶対にある。動画やただテキスト全文読んだだけじゃ得られない。

 

プレイしてとは言えないけど、プレイもしないで笑うのはやめた方がいい。

自分も気をつけます。

 

そんな感じ。